「漁師はなぜ、海を向いて住むのか? 」書評(日経新聞2012.10.30)

地井昭夫先生遺稿集「漁師はなぜ、海を向いて住むのか? 」の書評を、重村先生が書かれています。10月30日日経新聞に掲載されました。書籍は講評で現在在庫が少なく、12月3日に重版が出されるとのことです。

工作舎

2012年10月30日日経新聞朝刊

地井昭夫「漁師はなぜ、海を向いて住むのか? 」書評

漁師はなぜ、海を向いて住むのか――。1960年代半ばから40年以上、日本の漁村集落の構造を研究しつつ、そんな根本的な問いかけをしていた学者がいた。広島大学など各地で教べんをとり、2006年に亡くなった地井昭夫である。  早稲田大学で建築家の吉阪隆正に師事した地井は、北海道から沖縄まで小さな漁村を訪ね歩いて、膨大な調査と、文章を残した。77年に仲間と漁村計画研究所を設立、全国の漁村環境整備を進めながら、海と共に暮らし、その恵みを得ながら形作られた島国・日本の文化を追い続けた。  「著述をまとめた本を編集してほしい」。早稲田の先輩である地井の、私への遺言を夫人から聞いた。膨大な遺稿のリストは長男の地井童夢がまとめた。地井の研究仲間の幡谷純一や神奈川大学の院生と作業し、今年遺稿集はようやく完成した。作業のさなか2011年3月には東日本大震災が発生。改めて地井の仕事の重要性が浮かび上がった。地井は33年に三陸一帯を襲った大津波、北海道の奥尻島が津波被害を受けた93年の北海道南西沖地震や95年の阪神についても論じている。  私たちの師である吉阪は「行動する建築家」だった。65年1月11日から12日にかけて、東京都の伊豆大島が大火に見舞われた。吉阪は12日のうちに復興案をスケッチに描き、焼け跡に立って人々に呼びかけた。「みなさん、希望を失ってはいけない。これからすばらしい町をつくりましょう」  のちに復興手法として東京都は区画整理によることを決定し、提案はそのままの形では実現しなかった。だが住宅地を区分けし、道路を引くだけでは血の通った町にはならない。吉阪研究室は、当時都内で撤去が進んでいた都電の敷石を神社の参道に再利用し、島特有のツバキで「椿のトンネル」をデザイン提案した。港の桟橋や井戸や墓地など町の人々にとって大切な場所を活かしつつ結ぶ海辺の遊歩道も計画した。  地域の伝統や習慣、歴史を掘り起こし、町並みに取り入れる試みは、近代的な都市計画の視点だけからは生まれない。私も66年秋、学部生として調査に同行した。日中はひたすら町を歩き、地元の方々の話を聞く。夜は遅くまで、地図を囲んで議論し雑魚寝した。この行動と思索の中心となり「発見的方法」を提唱したのが、地井だった。  漁村集落に目を向ける転機になった京都府与謝郡伊根町の舟屋との出合いは、この少し前だ。地井は週刊誌の写真に引かれ、丹後半島を訪ねた。伊根浦の小さな入り江を囲みながら、2階建ての舟小屋が波打ち際すれすれに並んでいる。干満の差がない穏やかな海を引き入れた1階部分に舟をつなぎ、作業場や加工場にも使う。家族は道を隔てた、主屋に波音を聞きつつ住む。  漁師が海に向かって暮らす理由にはさまざまな説明がある。漁の前に天候を見極めるため。海に近い方が便利だから。どれも「事実の半面しか語っていない」と地井は記している。私自身、東日本大震災の被災地を訪ねて気付くことは、漁師たちは実によく海に目をやる。海そのものが恵みやわざわいであるとともに、また総合的な豊かな「情報」でもあると感じる。  一般に多くの漁村で漁師の家が海から遠い場合でも海を向いているのはなぜか。海辺の集落を調べていくうちに、地井はそれが海を分かち合う人々の暮らしの社会的仕組みに基礎をおきながら、海からの恵みを迎え感謝する、漁民の意識の構造と信仰心の現れではないかと考えるようになる。  海女の生活を調べながら、地井は新しい家族のあり方を示唆している。能登の海女家族は、季節ごとに住まいを変え、家族の同居の組み合わせも変え、生活の互助単位を柔軟に組み替えている。同居や近居により家族が伸び縮みする暮らしぶりは、介護をはじめ現代が抱える問題を解決するヒントになるかもしれない。  東日本大震災後に遺稿を書物にまとめ、地井の研究が1つの像を結んだように感じている。海に囲まれた島国に暮らす私たちは漁村からもっと多くを学べるに違いない。彼の仕事を受け継ぎ、復興に生かしていくことが残された課題だと思う。(しげむら・つとむ・神奈川大学教授)

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